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Ma.K.ノベライズ小説化「the SNAKE EYE story」第2章 John Doe ~堕ちてきた男~

Ma.K.ノベライズ小説化「the SNAKE EYE story」第2章 John Doe ~堕ちてきた男~

第2章 John Doe ~堕ちてきた男~

地震ーー
アンはそう思った。
診療所の建物全てが振動している。どんどん揺れが激しくなっている。窓ガラスが割れてしまうかもしれない。
しかしこれは地震とは違う気がした。地面が揺れていない。
アンはビリビリと振動している窓を一気に引き上げ、空を見上げた。
青空の真ん中から黒い何かが墜ちてきている。
黒煙の尾を引き、地上に向かって落ちてきているそれが何かはわからない。
その黒い塊が空気を切り裂いていく風切り音が鳴り響く。
「隕石?」
塊は地上に迫ってくる。
「ぶつかる!」
アンは急いで窓を閉めて机の下に潜り込んだ。
風切り音がどんどん大きくなり、凄まじい激突音とともに今度こそ地面が揺れた。
机上のペンや書類の束が跳ね落ちた。
アンは机の下から急いで這い出るとドアに体当たりをするようにして外に飛び出した。
東の森から野太い煙がもうもうと上がっている。
アンは診療所内に駆け戻ると医薬品の入った往診用の鞄をひったくるようにして抱え込み、ドアを開け放したまま煙に向かって駆け出した。
墜ちた物がなんなのかが気になったが、山火事も心配だった。
あの美しい森が焼けてしまうと思った。

臭気が満ちていた。
木や土が焼ける焦げ臭さの中に化学物質が放つ異臭が混じり、落下物が自然の物ではないと教えた。木々の間から狼煙のように吹き上がる煙を目指してアンは森に分け入っていく。
突然視界が開け、空が見えた。
薙ぎ倒され、焼け焦げた木々の向こうに何かが埋まっている。近付くとクレーターのように擂り鉢状に穴が開いている。
なにか、兵器か人工衛星の残骸が宇宙から墜ちてきたらしかった。
放射性物質の影響が心配でクレーターの縁から落下物をみつめながら歩いていたが意を決して擂り鉢状の穴に下りてみる。
穴の底はより焦げ臭い。
落下物はまだ高温で顔にその熱気が伝わってきた。あまりの臭気に口と鼻を袖で塞いだ。ところどころまだくすぶったように煙が上がっている。
ぐるりと落下物の周りを歩くと落下物の裂け目から黒焦げになっているなにかが見えた。よく見ると手足があり、一瞬、人かと驚いたがすぐにスーツ系の兵器だと見当を付けた。
「誰か乗っているの?」
アンは抱えていた医療鞄を焼け焦げた地面に放ると熱い残骸の中に入り込んだ。機体のハッチに手を掛けようとしたが熱くてとても触れない。体中から汗が噴き出してきた。
アンは胸ポケットに挿していたスチール製のペンを握るとそれを使ってコントロールハッチを開けた。
そしてパネルをペン先で操作するとかすれた電子音が小さく鳴り、閂が抜けるような金属音がした。ハッチがわずかに開き、中から熱風が噴出した。
そこへ野良仕事を放って、駆けつけた村の男たちがやって来た。
穴の縁からアンを見下ろして「先生!あぶねえぞ」と言って、男たちは穴の底へ次々と下りてきた。降りてくる勢いでうっかり落下物に触ってしまった者が熱さに悲鳴を上げて飛び上がった。
「中にスーツが」
アンは叫んだ。
村人たちは中を覗き、焼け焦げた機体を見ると口々に「ひでえな」と感想を洩らした。
「中に人がいるかもしれないわ」
アンは傍観している村人達に再び叫んだ。
男たちをかき分けて修理屋のギベオンがやってきた。いつものオイルまみれのつなぎと溶接用のゴーグルを頭に巻いている。年季の入ったエンジニアブーツで黒く焦げた土を踏み締め右足を引きずりながら近付いてきた。残骸の中を覗き「こいつは…」と唸った。
ハッチが開いたのはわずかで中がよく見えない。
アンは村中の機械を直している修理屋のギベオンを手招きしてハッチを開けるよう頼んだ。
ギベオンはアンの放り投げた医療鞄を一瞥し、隣の男からピッチフォークを借りるとそれをハッチの隙間に差し込んだ。作業用の分厚い手袋を付け、てこの要領で力を掛けた。ほかの男たちもハッチを開けるのを手伝い始めた。
錆び付いた巨大な城門のような音を立ててハッチが少し開いた。

見えたのは真っ黒になった男だった。
肌も服もなにもかも黒く、色彩がなくなっていた。バイザーで目許が覆われ顔が見えない。よく見ると顔の半分が血で赤く光っていた。
「蒸し焼きかよ」
誰かが言った。
アンはそれでも男の首の脈を計ろうと手を伸ばし、付いている酸素マスクを外した。マスクの内側まで煤が入り込んでいた。
そのとき、男の口がわずかに動いた。そして、大きく息を吸い込み始めた。 ぎょっと驚く村人たちにアンは夢中で叫んだ。
「生きてるわ!引っ張り出して!はやく!」

その夜遅く、村長のガスクが診療所へやってきた。
ガスクは無言で診療所に入るとそのまま椅子に腰掛けた。長い白髭とゆったりとしたローブを羽織ったその姿は古の魔術師のようだが表情は険しい。
「スーツのハッチを操作したと聞いた」
刻まれた皺の奥から光るガスクの視線はアンに厳しく向けられた。うろたえたがアンはしっかりと答えた。
「誰にも見られていないわ」
アンはじっとガスクの目を見た。
アンはレジスタンスの一員としてこの村へやってきた。そのことを知っているのはガスクとギベオンだけだ。そのガスクにへまをやったと思われたくなかった。
「男は?」
辺りをはばかるような低い声でガスクは尋ねた。
アンはガスクを病室に通した。
男は包帯でぐるぐる巻きだ。全身に火傷を負っていた。
「助かるのか?」
「たぶん」
無言でじっと男を見ているガスクに、アンは付け加えた。
「手は尽くしたわ。感染症と低酸素症による脳機能障害さえなければ」

森のどこかでフクロウが鳴いていた。
その鳴き声を聞きアンは森が焼けなかった事にいまさらながら安堵した。
「どう思う?」
ガスクの問いにアンは男の左腕の袖をまくった。
大小の傷跡の刻まれた二の腕に紋章のようなタトゥーがあった。それを見たガスクの眉間に一際深い皺が刻まれた。
「アバドン…」
そのタトゥーは五十年前に壊滅したある隊の部隊章だった。

シュトラールの統治が地球を染め始めた時代、反シュトラール勢力との間に小競り合いはあったもののまだ戦争は始まっていなかった。
しかし、圧倒的軍事力を背景に次々と領土を拡大するシュトラールに対する各地の民族・国家単位での不安、反発は大きく膨らんでいた。
そんな中、反シュトラール連合はアバドン隊を結成する。
アバドン、それは忌まわしい奈落の王の名を表す。
それまで戦闘機や戦車が主力だった戦場に当時新兵器として導入されたスーツ型兵器Armored Fighting Suit通称A.F.S.のみで編成された特殊部隊のコードネームが「アバドン」だった。
突如として現れた新兵器部隊「アバドン」は反シュトラール勢の強力な戦力としてあらゆる戦線に現れ、解放の名の下に戦いを仕掛けた。
この攻撃をシュトラール軍が宣戦と捉え、戦争が勃発、瞬く間に地球全土を巻き込む大戦となった。
汎用性、機動性の高いスーツ系兵器は大規模な戦闘はもちろん、局地戦ではさらにその力を発揮し少数でめざましい戦果を挙げていった。
スーツ系兵器、そしてアバドン隊の破竹の勢いは、反シュトラールを標榜するレジスタンス達の希望となった。
そして猛攻に押されたシュトラール軍もまたスーツを次々と開発、製造、逐次戦場へ投入した。
歴史家はアバドン隊がいなかったとしてもいずれ戦争は起きたという。しかし戦争のきっかけがスーツの登場、アバドン隊の強力な戦い振りであったことは間違いがなかった。
戦闘は徐々にスーツ同士のゲリラ戦となり泥沼と化した。
アバドン隊の戦闘も戦場という表舞台から徐々に暗殺やテロルへとシフトしていった。そしてかつて破竹の勢いで勝利を手にしていたアバドンは汚れ仕事をやる者達としてレッテルを貼られ自軍からも疎まれていった。
そんななかシュトラールは強力な資本力を背景にプロパガンダを打つ。 アバドン隊を戦争を仕掛けた張本人と位置付け、この部隊がいなければ戦争もなかったと大々的に「アンチ・アバドン部隊」キャンペーンを打った。
あらゆるメディアを通し、反アバドンを掲げ、様々な戦争中の事件や事故、戦闘による死者をアバドン隊の罪とし、最後は環境問題すら彼らのせいとして挙げつらった。
反シュトラール連合は事実無根としてこのプロパガンダを非難した。
しかし、戦争に辟易していた民衆はアバドン隊を憎むようになっていた。環境破壊はさすがに関係がないとわかってはいたが民衆は鬱憤の捌け口を求めていた。
シュトラールのプロパガンダはほどなく成功した。
反シュトラール勢は「連合」という成り立ち上、政治基盤が脆弱で民衆からの突き上げに屈し、上層部は極秘裏にアバドン隊の解散を決めた。
上層部の中にはアバドン隊に指示を出した者の責任を問う声もあったがその声もごくわずかなもので黙殺された。

寒風吹きすさぶゴビ砂漠にアバドン隊の全兵力が隠密裡に召集された…。
シュトラールの大規模な基地がゴビ砂漠に建造中でそこに戦力が集結しつつあるとの報を受けたからだ。
そしてシュトラールの基地の前に配置されたアバドン隊は作戦開始まであと3時間というところで突如として背後からの攻撃に曝された。
罠だった。
反シュトラール連合はアバドン隊を解散することで戦争勃発の責任を認めることとなるのを避けたかった。そしてその非難の矛先が自分たちに向かってくることを恐れた。
それならばいっそのことアバドン隊を自分たちと切り離すことによって無実を得ようとした。そしてシュトラールと示し合わせてこの戦闘を仕組んだ。
アバドン隊はシュトラール軍と連合軍の挟撃にあった。遮るもののない砂漠で砂に足を取られたアバドン隊は十字砲火を浴びた。両軍による殲滅戦だった。
しかし驚くべきことにアバドン隊は損害を出しながらも、シュトラール、連合軍に反撃を始めた。
反撃は凄まじいもので物量に勝る両軍の同型機、最新機が全く相手にならなかった。
その被害の大きさと劣勢に傾き始めた戦況に恐れをなしたシュトラール、反シュトラール連合は発動することはないと考えていたプランBを実行する。
核攻撃だった。
地球では環境保護の観点から使用が禁止されていた核兵器が使われた。宇宙基地から発射された核ミサイルは正確にゴビ砂漠を捉えた。
作戦に投入されたシュトラール、反シュトラールの部隊もろともアバドン隊は抹殺された。
この核攻撃は表向きシュトラール軍基地での新兵器開発中の事故として処理された。砂漠での事故ということで市民への被害はほとんどなく世論が取り上げることもなかった。
アバドン隊は歴史の表舞台から消えた。
しかし程なくしてまことしやかな噂が流れた。
アバドン隊はまだ生きている、と。
それから数年間、謎の暗殺事件が両軍に頻発する。要人が次々と暗殺された。殺されたのはこのときのゴビ砂漠作戦の指揮官たちだったと言われた。
その暗殺実行は徹底していて、その指揮官とされた軍人や政治家本人はもちろんその家族や後継者も例外なく皆殺しにした。
世界の要人は、核攻撃の事実を隠し続け、アバドン隊の生存を否定した。
しかし一方で、いないはずのアバドン隊員の報復を恐れた。そしてその恐れからアバドン隊員の捜索、抹殺を何年も何十年も命令し続けたという…。

「この男の歳は?」
アバドン隊の部隊章をその男の腕に認めてからガスクは珍しく慌てているようだった。
「身元を報せるものはなかった。たぶん三十代、ひょっとしたら二十代かもしれないけど間違いなく四十はいってないと思う。ただの勘だけど」
ガスクが歳を聞いたのはアバドン隊の話はもう五十年も前のことだったからだ。歳を聞いたガスクはほっとしたようだったが、それでもアンに意見を求めた。
「私もこの部隊章を見たときは驚いたわ。でもこの男がアバドン隊の生き残りだとは歳からしても考えられない。きっとこの傭兵が粋がって自分に箔を付けようと彫ったまがい物ね。でも私だったらこんなタトゥーは絶対に入れないけど。おちおち寝ていられないもの」
ガスクはアンの言葉に自分を納得させるようにして「そうだな」と頷いた。
各国の機関がアバドン隊の捜索、抹殺をいまも続けているという噂は絶えずあった。しかし、いざその部隊章を目の当たりにするといかにも安っぽい都市伝説のような話に思えた。
アンはガスクをドア口まで見送った。
「あの男の意識が戻らなかったときどうするか、考えておいて」
アンはガスクの背中に言った。
「それから本部へはわたしが連絡しておくわ」
ガスクは振り返らずに去った。
またフクロウの鳴く声がした。
意識が戻らなければガスクはあの男を死んだことにして殺すだろう、アンはそう思った。
そしてシドニーにあるレジスタンス支部へ男の情報を送った。有線なのでシュトラールに傍受されることのない安全な回線だ。
アバドン隊のタトゥーについて報告するかは迷ったが枝葉の話と考え、伏せた。

包帯は一日二回替えていた。やけどの状態は良くなってきている。ここにある抗生物質だけでは心許なかったが感染症もなさそうだった。意識が戻らないところを見ると墜落中に酸素が欠乏して、やはり脳が損傷しているのかもしれない。
アンは包帯を替えながらこのまま、この男はゆっくりと死んでいくだろうと思った。
しかしいまは治療を続けるつもりだ。
後ろを向き新しい包帯を取ろうと棚の下段の引き出しを覗き込んだとき腰から臀部にかけて違和感があった。
振り返ると男が寝ているだけだった。
疲れているのかもしれない。
妙だと思いながらもう一度同じ姿勢になった。視線は戸棚のガラスに写した男を見ながら。
包帯だらけの男は体を起こしてアンの尻を触ろうと手を伸ばしていた。傷が痛むのか顔をしかめている。
触った。
アンは動かない。男はガラスに写るアンの射るような視線に気付き思わず声が出ていた。
「あ…」

怒気をはらんだ村の男たちが包帯だらけの男を取り囲んでいる。男は診察室の堅い木の椅子に縄で後ろ手に縛り付けられていた。
「おめえアン先生のおしりを触ったのか!?」
「縄が食い込んでいてえよ」
男は答えずに泣き言を吐いた。
「うるせえ!アン先生のおしりを触ったのか聞いてんだ!」
カイという若い村人が叫んだ。
男はなにかを思い出そうとしているようにして天井を見上げ、ああ、と言い一瞬間をおいて、触ったよ、とこともなげに言った。
それを聞いて村人たちは息巻いた。
「なんて奴だべ。助けてもらった恩を仇で返しやがって」
「村から放っぽり出せ!」
そうだ!そうだ!さっきの若者カイが三白眼を吊り上げて、男の縄を掴んで引きずり出そうとした。椅子が男ごと激しく倒れた。
「ちょっと待て」
倒れて縄を掴まれたまま男が妙に落ち着いた声で言う。
「ん?なんだ」
もともとお人好しの多い村人は、男の一言につい耳を傾けてしまった。
「聞かなくていいのか?」
「なにをだ?」
「アン先生のケツの触り心地だよ」
これ以上の侮辱はないとカイが殴りかかったが、ほかの村人に止められた。
「すごかったぜ…」
余韻を楽しむようにして男が後ろ手に縛られたまま目を閉じ天を仰いだ。
カイは拳を握りしめて男を見た。
男は目を開けると村人一人ひとりを諭すように目をみつめて言った。
「おめえらあのアン先生のケツ触ったことねえんだろ?ありゃあ結構着やせするタイプだな」
「そ…そうなのか?」
村人のひとりが思わず聞き返す。
「ああ!ムッチリしていてそれでいてこう締まりがあるというか。ケツとしては極上の部類に入るぜ…」
村人は想像を掻き立てられている。男は倒れている椅子を戻してくれと言い、村人は戻してやった。
かろうじて村人のひとり巨漢のドナンが正義感を振り絞って言った。
「で、でもおしりを触ったらいけないんだ」
「まぁ聞け」
男は後ろ手に縛られているとは思えないほど落ち着いて話した。
「今回の件、俺の意識が朦朧として無意識の内に起きた事故だとしたらどうだ?」
「事故?」
「俺は見ての通り怪我人だ、重傷だ。もしあんたらがこの一件うまく納めてくれたら他にも報告できるぜ」
「なにを?」
「しりだけじゃねえ、胸やら風呂やら…あんな美人はそうそういねえからな」
村人たちの生唾を飲み込む音が聞こえてくるようだった。

怒号が病室から聞こえていた。
村人たちがあの男のしでかした痴漢まがいのことを聞きつけて診療所にやってくるとあの男を叩き起こして椅子に縛り付けてしまった。
あんなに怒っている村の人たちをアンは初めて見た。
アンはあの男がベッドから引きずり出されるときに「怪我人だから」と思わず止めに入ったが村人の剣幕に圧されてしまった。
いつの間にか怒号は聞こえなくなっていた。
なにやら小声で話しているようだ。村人たちのことだから酷いことはしないと思うが何かあればやはり止めなければならない。
このままだとあの男は村から追い出されるかもしれない、と考えていたときに病室のドアが開いた。
「ア…アン先生」
村で一番背が高く体重もあるドナンが農帽を胸の前で揉みながらアンに話しかけてきた。
「あ…あいつはかわいそうなけが人だべ。アン先生あいつの治療を続けてやってくんろ」
てっきり村人はなにかしらの罰をあの男に与えると思ったが、そう言われるならば医師として治療を続けることに異存はない。しかし無罪放免はおかしい。納得がいかない。
「でもあいつは…!」
アンは思わず声が出た。
「あいつはけが人だべ!」
ドナンがアンの言葉を引き継ぐように間髪入れずに言う。村人が後ろで頷いている。
「おしりの件は事故だべ」
「そうだ、そうだ、おしりは事故だべ」
村人たちは確認するようにお互いを見合って口々に言っている。
「おしりの件は意識がモウロウとしてたんだ。あいつも訳が分からずにやったことだからアン先生、おしりの件はゆるしてけろ」
「わ…わかったからあんまりおしり、おしり言わないで」
アンは病室に入った。
村人が後ずさるようにして道を開ける。
驚くことに男は立っていた。意外と背が高い。手首の縄の跡をさすっていた。アンは男の回復振りに目を見張ったが顔を見るとむかむかしてきた。
「もう大丈夫そうね。今日からたっぷり働いてもらうわ。あなた名前は?」
男は不思議そうな顔をしている。
「名前?あれ?オレ名前なんだっけ…」

半日掛けて確認した。
アンはカルテを閉じた。
「John Doe、完全な記憶喪失ね」
男は椅子に座ってきょとんとしている。
「治るのか?」
「さあ。全身怪我だらけだけど医学的には記憶に影響が出るような疾患はないわ」
「そうかい」
「あなたが記憶を失っていると嘘をついていない限りは、明日治るか、一生治らないかは誰もわからないわ」
アンは自分の言葉が刺々しくなるのを抑えられなかった。
男が村人を言いくるめたのはすぐに察しが付いた。嫌味くらい言わせてもらおうと思った。
「本当に落ちる前のことはなにも覚えてないの?」
「そういえば…」
「なに?」
「最初の記憶はあんたのケツのさわり心地だな!」
「今度そのことを口にしたら治療どころか死んでもらうから」
アンはペンを男の眼前に付き出して言った。
「でも名前がないと不便ね。痴漢、変態、犯罪者それ以外に名前が必要かしら」
「かっこいい名前を付けてくれよ」
アンは夕暮れの窓に視線を移し、少し考えた。
赤い夕焼け空に森の木々が切り絵のように陰になっている。その中の一際高い木の上に一羽のカラスが留まっていた。
「カラスって知ってる?黒くて図々しくてずるがしこくて。鳥類で唯一共食いをするそうよ。鳴き声も無駄に大きいし」
アンはくるりと振り返り男を見た。
「あなたをみつけたとき真っ黒だったの、カラスみたいに。だからカラス…Crow…クロウにしましょう」
カラスがひとこえ鳴いて羽ばたいていった。
そのときから男はクロウと呼ばれるようになった。

その夜、カイは再びアンの診療所へ向かった。
あの男を糾弾し損ねた後、一日の野良仕事をどうにか終わらせた。帰宅すると教師であるカイの母親ベルがアンに届けるようにと羊肉のシチューとパンを持たせたからだ。母親の言いつけにはいつも難癖をつけて断っていたが今回は二つ返事で引き受けた。
バスケットを提げて村を歩いているところを何人かにからかわれた。その度に母親の言いつけでしょうがねえだろ、と返した。足が逸らないように努めた。
診療所にはまだ明かりがついていなかった。
一瞬、暗い室内にアンがクロウと二人きりでいることを考えて頭がおかしくなりそうだったが、深呼吸をしてドアをノックした。
「カイ…」
しばらくして出てきたアンの顔は疲れきっていた。昼間は気付かなかったがその顔を見て浮かれた気持ちが失せ、言葉に詰まった。
「か…母ちゃんがこれを届けろって。シチューとパンだ。」
「ベルが?助かるわ。さ、上がって」
部屋に通されると消毒液かなにかの薬品の臭いがした。アンは窓を開け、ランプの明かりを灯した。部屋にゆっくりと明かりが広がった。
「恥ずかしいけど腹ペコなの。あなたも食べる?準備するわ」
「あぁ、うん。俺が準備するよ。温めるだけだろ?」
アンは遠慮したがカイは強引にシチューの入った鍋を取り上げキッチンに入った。キッチンにはここ数日使った様子がなかった。あの怪しげな男が墜ちてきてからアンはほとんど飲まず食わずなのかもしれない。
見よう見まねで配膳をした。
アンと食事を二人でしたのは初めてだった。会話はほとんどなかった。
食事の用意をしたのは我ながらよくやったと思ったのだが、疲れきったアンの顔を見ると自分はさっさと帰った方がよかったのかもしれないと思った。
「あいつ、クロウ…どうなんだ?」
あの男のことを聞くのはいやだったが、他に話題がなかった。
「カイの前だから言うけど、点滴も輸血用血液もないところでやれる手術じゃなかったの。手は尽くしたけど…。正直、あの男がなんでまだ生きているのか私にもわからない。合併症でも起きたらおしまいだわ」
「死ぬのか?」
「わからない」
盛り上がらない食事を続けていると病室の方から物音がした。ドアが静かに開いた。
「いい匂いだ…」
立っていたのは、クロウだった。

「旨い!」
シチューをかきこむようにして食べているクロウを見て苦々しく思った。もっとも母親の料理が誉められて悪い気はしなかったが。
「これはなんの肉なんだ?カイ」
カイはこの男が自分の名前を知っていることに少なからず驚いた。
「なんで俺の名前を知ってるんだ」
病人相手なのにどうしても口調が喧嘩腰になる。
「だって村のお嬢さんたちが言ってたぜ。村で一番かっこいいのはカイだって」
「いつの間に…」
聞けば、昼間のあの騒動の後、物見高い村娘の何人かが見舞いと称してクロウを見に来たらしい。
しかし自分にそんな話があるとは…、カイは信じられない気持ちだった。村の娘たちの顔を順々に思い起こして頬が緩むのを抑えられない。
「そ…そんなことないだろ!」
ついアンの顔色をうかがってしまう。
「いやぁ、みんなあんたに憧れてるって言ってたぜ。ただし…」
パンでシチューの皿を拭って頬張るクロウが視線を皿に落としたまま言う。
「俺が落っこちてくるまでは、だって!」
痩せこけたクロウは底抜けに笑った。カイはむっとした。
「冗談だよ、冗談」
こいつのことを嫌いだ、とカイは改めて思った。

食事を終えて、アンはクロウの包帯を解いた。
手持ち無沙汰だったがカイは帰らずに診療室でその様子を見ていた。
クロウはそのカイの視線をとらえて「いやん」と科をつくってふざけた。
クロウの体には大小様々な種類の傷があった。右の二の腕には見たことのない紋章のようなタトゥーがあった。古傷が多く、この男がどんな生き方をしてきたのか容易には想像できなかった。
「先生、俺はどんな様子なんだい」
「はっきり言うわ。いまは回復してるように見えるけど合併症が起きたらひとたまりもないわ。ここには限られた設備と基本的な抗生物質のいくつかがあるだけ」
「死ぬかもしれないってことか」
「ここには麻酔すらないの。あなたの体中を、いま激痛が襲っているはず。死ねばそれから解放されるわ」
カイはアンの突き放した言いように驚いた。いつも優しいアンの言葉とも思えなかった。
クロウはフ、フ、と笑いとも息継ぎとも取れるような笑みを見せた。
クロウはアンに頭を下げ、ふざけた様子で手を合わせた。
「助けてくれ!お願い!」
「助けるもなにもないわ。ただあなたが死ぬのならこれ以上貴重な薬品をあなたに使わずに村の人たちのために使えるということ」
「わかった。先生、俺は自分が何者なのかも知らずに死にたくないんだ。死ぬなら自分のしてきたことを知ってから死にたいんだ。なんとか治療を続けてくれないか」
アンは了承するでも拒否するでもなく席を立ち、窓辺から遠くわずかに残る夕日の赤と夜の蒼がなめらかにせめぎ合う空を見ていた。
クロウも立ち上がった。
「それでひとつお願いがあるんだが」
痛むのかひどく緩慢な動きだった。
「落っこちてきた機体のところまで俺を連れて行ってくれないか。」

to be continued 第3章 Gibeon’s Garage

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